『カフェ・プティボヌールへようこそ』
「貴方が枢木さんですね?」
鈴を転がすような声が、スザクの頭の上で響く。
給仕をしていたスザクが、目の前に転がってきたペンを拾おうと腰を屈めた時に、その声はかかった。
見上げた先では、車椅子の上でにっこりと笑う少女の姿。薄紫の瞳がにこやかに細められ、僅かに頬を染めて微笑む姿は何処かの絵画のようだった。
カフェ・プティボヌール。
此処は郊外に建てられた、喫茶店というには些か広すぎる敷地に建てられたケーキショップだった。
店内での飲食も可能で、その為に広大なスペースを有している。それは、店長の意向から全ての人々に訪れてもらえるようにと、バリアフリーに対応し車椅子で行動する人たちにも自由に動いてもらえるようにとの配慮からだった。
だから。目の前の少女が、独りでこの店を訪れ自分で席を探しこうして注文をとるのも、何も珍しい光景ではない。
店内にあるテーブルは一つ一つが四人がけの大きさで、椅子は必ず二つのみ。それは車椅子がそのままテーブルに着けるようにとの配慮だ。ちなみに、健常者用の椅子は壁際に置かれていて、自由に利用できるようになっている。使った後は戻すのがこの店のルールだ。
この店で高校のときからバイトとしてスタッフを勤め、この春晴れて正社員となったスザクは。
目の前で微笑む少女の発した声に、眼を瞬かせた。
「…あの、どうして名前…。」
呆然とそう呟けば、少女はニッコリと笑ってスザクの胸元を指した。
「あ、」
ネームプレートを指され、唖然とするスザクを少女はくすくすと小さく笑みを零し見つめている。
「あの…でも、初めてのお客さんですよね?」
「そうですね、私が来たのは初めてです。」
ゆっくりと頷いて、少女は語る。その桜色の唇が楽しそうに綻ぶのを、スザクは不思議そうに見つめた。
「でも、お兄様から聞いていたんです。このお店に、ボルゾイみたいにとっても優しそうで、くるくるフワフワな方がいらっしゃるって。だから私、どんな方なのか見てみたくて。」
想像どおりの方でした、と。笑う少女に、スザクはボルゾイってなんだっけ?と首を傾げる。けれど釣られるように笑みを浮かべているのは、少女が屈託無く無邪気に話す様子が、けして悪意から言っている訳ではないことが判るからだ。
「はじめまして、私の名はナナリー・ランペルージといいます。」
そう告げる少女にスザクは拾ったペンを渡しながら、自分が少女に対して何の抵抗感も抱いていない事を自覚する。どこか穏やかな雰囲気で接してくる少女が、何かの目的を持ってスザクに話かけてきたのは明白だ。だから、その理由を知りたいと強く思ったのだ。
「…はじめまして、枢木スザクです。プティボヌールへようこそ。」
嬉しそうに笑う少女に、引きずられるようにスザクも笑みを浮かべた。
それが、一番初めの始まり。
本当の始まりは、そのずっと前に始まっていたのだけれど。
少女がこの店に来たのは、一番にスザクに会いたかったのだと言う。
オーダーされた品物をテーブルに置いて、スザクは少女の表情を伺った。
「カフェオレとティラミスミルクレープです。」
「ありがとうございます。」
嬉しそうに顔を綻ばせてケーキを見つめる横顔は年相応で、未だ子供と言っても過言ではない様子を引き立たせる程、幼いものだった。
時間は正午前で、店内の客は殆どいない。少女を含めても三組程で、だからこそスザクは給仕したそのまま、少女の隣に立ちながら声を掛けた。
「…もしかして、君のお兄さんって僕と同じ学校だったのかな?」
そう呟けば、少女は大きなすみれ色の瞳を瞬かせて首を傾げる。
「いえ、そうでは無いと思います。」
「じゃあどうして僕のことを?」
スザクの声に、少女はカフェオレに口を付けると小さくおいしいと囁いてから顔を上げた。見上げてくる瞳は、とても楽しそうに弧を描いている。
「お店の前の道路、家までの帰り道なんです。だから毎日、朝や仕事帰りに見ていたそうです。」
このお店の様子を。
そう呟いて少女はケーキにフォークを軽く入れた。柔らかいクレープ生地がゆっくりと分断されていく。
「バリアフリーを謳うお店は多いのですけど、決して車椅子に優しいばかりではない方が多くて。広さとかロビーの空間の取り方とか。色々不自由を感じる所はあるのですが、このお店は…私が一人で動いても大丈夫なんじゃないかって。」
そう思いながら店の様子を眺めていたのだと語っていたと、少女は言う。
この店は朝も早い。軽食も扱っているため、モーニングコーヒーを目当てに朝食を済ませていくお客もいる位だ。その様子を眺めながら、少女の兄は仕事に行っていたのだろうか。
少しずつ、少女の兄だという人物にスザクは興味が湧いてくる。
「それで見ている内に、スザクさんに気づいたそうなんです。私と髪の色は似ていて、瞳は翠色。てきぱきと良く動いて、いつでも笑みを浮かべていて柔和な対応で。お仕事しているのが楽しいのだろうなって、言っていました。…でもだからって、犬に例えるなんて失礼ですよね。」
話しながら気がついたのだろう、スミマセンと少女は肩を竦めて俯いてしまった。
「っぁ…気にしないで、本当は良く言われるんだ。」
気落ちした様子の少女に、スザクは慌てて頭を振る。
正直、よく言われている事だったのだ。スザクは犬型だよな、とか。ボルゾイという犬種まで指定されたのは初めてだが。
後で調べてみよう、と思いながらスザクは笑みを浮かべた。
「…本当ですか?」
気遣うように首を傾げて顔色を伺う少女に、スザクは微笑んだままコクリと首を縦に振る。
「だから気にしないで……えぇと、ランペルージさん。」
先ほど教えてもらった名前を思い出しそう呼べば、少女は嬉しそうににっこりと笑いながら、小さな唇を綻ばせた。
「ナナリーです、そう呼んで下さい枢木さん。」
その方が嬉しいです、と見上げながら綺麗に微笑む。
「…じゃあ、僕のこともスザクって呼んで欲しいな。」
その方が嬉しいよと、スザクもまた囁く。
お互いに暫く見詰め合ってから、ニッコリと笑みを浮かべた。
「ミルクレープ、すごく美味しいです、スザクさん。」
「ありがとう、ナナリーちゃん。ウチのお店の一押しなんだ。」
にこやかに笑うスザクに、少女はパチクリと瞬きをしてから再度笑みを浮かべる。
「ナナリー、で良いです。だって私の方が年下ですもの。親しい方は皆、そう呼んでくれています。だからスザクさんも。」
お願いします、と少女は笑みを深めて告げる。
その言葉に、暫くスザクは逡巡してからポツリと口を開いた。
「…ナナリー、誰にでもそんな風に名前を呼ばせたらいけないよ?」
嬉しいけど、ちょっと心配だよ、と。スザクが苦笑しながら告げれば、少女は首を少しだけ首を傾げてから、大丈夫ですとニッコリと笑った。
「私、人を見る目はあるんですよ?信頼できる人にしか、呼ばせませんから。」
それに、お兄様が気にする程の人なのですから、と。
少女は全幅の信頼を寄せてスザクに呟いた。
その様子に、何処か暖かくなる胸を感じて。スザクは笑みを浮かべたまま、少女の隣に立ち続ける。
交わされる言葉の一つ一つに、とても柔らかな少女の気遣いが感じられて。
初めて逢った少女との会話は思ったよりも長く続き、仕事に戻る為にその場を辞するのが惜しく感じる程に楽しく感じられた。
そしてその日から、少女は店の常連となったのだ。
2009/08/02
給仕なスザクさんも萌えです。