『カフェ・プティボヌールへようこそ』 2
チロリン、と入店の音が響くと同時に開いた自動ドアの向こうに見慣れた車椅子を見つけて、スザクは小走りに入り口へと近づいた。
「こんにちは、ナナリー。」
桃色の車椅子を自在に操り、出迎えるように姿を現したスザクに少女はにっこりと微笑んだ。
「こんにちは、スザクさん。」
「今日は早いんだね。」
「はい、短縮授業だったんです。」
だから来ちゃいましたと小首を傾げる少女に、スザクは空いている席を探すと車椅子を押していく。少女が自分で出来ることは承知しているが、仲良くなってからは得にスザクの手が空いている時はそうするようにしている。少女も了承の上だ。
だから、テーブルに着いてスザクがメニューを差し出すのを待って、彼女は礼を言う。必ずと言っていい程に。
「ありがとうございます、スザクさん。今日のお勧めは何ですか?」
慣れたことで、スザクもその言葉を待ってから少女に返事を返す。
「今日のお勧めはサクラのシフォンケーキに、シトラス風味のアイスコーヒー。ホットが好ければ出せるけど。」
「じゃあそれで、コーヒーはホットカフェオレにして頂けますか?」
「やってみるよ。」
少し待ってて、とスザクが言えば少女は嬉しそうに頷いた。
「後は、いつものメニューで良いのかな?」
「そうです、チョコチップとレディグレイのスコーンに」
「クロテッドクリームをたっぷり。」
「ハイ!」
にっこりと笑って声を上げる少女に、スザクは笑みを溢れさせた。
「ナナリー、いつも言うけど甘いものの摂り過ぎは注意だよ?」
「スザクさん、いつも言いますけど普段はあんまり甘いものは食べていないんですから!」
もう、と少女は心外だと口を尖らせる。そんな少女の様子に、スザクは破顔して笑い声を上げる。
「ジャムは何が良い?」
クスクスと笑い声を漏らしながら問いかければ、少女はそれまでが嘘の様にニッコリと笑って告げてくる。
「クランベリーが良いです!」
「判った。」
待ってて、とスザクは足早に踵を返した。その背中を見ながら、慣れた動作で少女はバックの中から本を取り出すと、テーブルの上に広げた。
注文が届けられるまで、少女は本を読んで時間を過ごす。僅かな時間でしかないが、取り出される本は参考書だったり小説だったりと、様々だった。
カウンターの中に入りながらその姿を見遣って、スザクは注文の品の準備に入る。シフォンケーキを皿に取りトレイの上に乗せると、スコーンの棚に手を伸ばし花びらの形をした小皿にスコーンを二つ乗せる。クリームとジャムを専用のココットに盛り付けると、コーヒーの準備に移った。
この店ではお客の注文に対して、一杯ずつネルドリップで淹れる方針だ。
水に浸していたネルフィルターを一つ取り出し、お湯を注いで暖めてから絞り水気を切ってサーバーに乗せる。コーヒー粉を入れてお湯をゆっくりと注ぎ、粉全体に満遍なく染み渡ったら三十秒位蒸らす。そうすれば段々とコーヒー全体が膨らんでくるから、『の』の字を描く様にゆっくりとお湯を注いでいく。
泡を消さずコーヒー全体の膨らみを消さない様に淹れて行くこの工程は、慣れるまでは大変だった。それでも今では慣れたもので、ゆっくりと何度もお湯を注ぎ、匂いが立つのを確認してスザクは吐息を吐いた。
サーバーに一人分の分量が注がれたら、フィルターを外す。中に残るお湯を落としきってしまうと駄目なのだ。その辺の味の違いも、漸く判ってきた。
注文はカフェオレの為、少し濃い目に抽出する。カップに注いでから、別に暖めておいたミルクを混ぜれば出来上がり。
ゆったりとコーヒーの匂いが、カウンターの中に充満する。
この瞬間が、スザクが一番好きな時だった。
トレイにカフェオレのカップを乗せれば注文の品は総て整った。それを手にしてスザクはカウンターを出る。
席に視線を向ければ、少女の真剣な横顔が見えた。ゆっくりと近寄り、驚かせない様にそっとテーブルの上にトレイを乗せる。
「お待たせ致しました。ホットカフェオレにサクラシフォンケーキ、スコーン二種になります。」
カタンと小さな音を立てながらそう呟けば、少女はにっこりと笑いながら顔を上げた。
「ありがとうございます。」
そう言いながら、広げていた本を閉じてトレイに向き合う。その表情が本当に嬉しそうに綻ぶものだから、吊られてスザクも笑顔を浮かべた。
「今日も美味しそうです、スザクさん。」
頂きます、と笑う少女にスザクも瞳を細めて頷く。
「どういたしまして。ごゆっくりどうぞ、ナナリー。」
そう声を返した途端に、入り口からお客が数組入ってくるのが見えた。スザクはナナリーに軽く手を振ってテーブルを離れる。
結局その日はお客の出入りが多く、スザクがナナリーに声をかけられたのはこの時だけだった。
ナナリーの姿がテーブルに無いのに気付きスザクが店内を見回していると、玄関脇のスペースで車椅子のまま外を伺っている背中が見えて、スザクは駆け寄った。外ではシトシトと雨が降っている。
「ナナリー、今日はもうお帰りかい?」
「スザクさん…、今日は早めに帰ると約束したんです。」
だから、とナナリーは手に持っていた携帯をスザクに向けて掲げた。車椅子のナナリーがこの店にまで来るには車での送迎が必要だ。彼女は学校からの帰りに寄る為、その間は運転手は時間を潰しているのだという。送迎の人間にも休憩は必要だから、とナナリーは自分がお茶をしたい言い訳なんだと何時だったかスザクに話していた。
「そう…今日は忙しくて話してる時間が無かったから、寂しかったな。」
「私もですスザクさん。でもお店が忙しいのはいい事ですよね。それにこのお店、とても人気があるのですもの、忙しいのは当たり前ですよ?」
学校でも良く話題に上るのだという。ナナリーの通うアッシュフォードからは離れているのに、それでも話題に上がるのならば評判が良いのだろう。
スザクはそれが嬉しくて笑みを浮かべた。この店長の藤堂とは昔からの縁で、スザクから見れば師匠なのだ。その彼が運営を始めたカフェが評判だと褒められるのは自分の事の様に嬉しかった。
「ありがとうナナリー。ナナリーにそう言って貰えると余計に嬉しいな。」
そう言ってから、ガラス越しに空を見上げる。
「…雨、止まないね。」
「少しですから、平気ですよ。此処はエントランスもちゃんとしてますから、とても助かってます。」
ナナリーがそう答えるのと同時に、入り口前に一つの車が入ってきた。同時にナナリーは車椅子のロックを外す。
「お迎えが来ちゃいましたね、今日はこれで失礼しますスザクさん。」
美味しいカフェオレとケーキ、ありがとうございました。ナナリーはそう言って車椅子のスイッチを操作する。電動式の車椅子が動き始めたと同時に、自動ドアが反応して開く。
「ナナリー、またおいで。」
「はい、スザクさん。また来ます。」
じゃあ、とナナリーは車椅子の背凭れ越しに振り返って軽く頭を下げた。それに合わせてスザクも軽く頭を下げる。
いつもの別れの挨拶を交わして、スザクはナナリーの車椅子が真っ直ぐに外に向かうのを見守る。
店のエントランスには屋根が掛かっており、車がそのまま入ってこれる様に広い空間を取っている。ナナリーが自動ドアの外側に車椅子を止めて車が入って来るのを待っている姿を、雨の日には良く見ていたのだ。だから、今彼女が向かっている車がいつもの迎えの車だと確認して、スザクは背中を向けた。
スザクの姿が店の中に消えてから、車から長身の少年が降りる。
「………ナナリー様。」
輝かしい金髪を日の光に反射させながら少年が恨めしげに呟く中、後ろから今度は小柄な少女が降りてきた。
「……置いてった。」
ポツリと呟きながら半眼の視線を向けられて、ナナリーは苦笑する。
「すみません、お二人共。」
車の後方に向うと同時にハッチが開いて車高が低下し始めた。スロープが降りて来るのを待ってナナリーが車椅子を正面につければ、少女が手早くベルトを車椅子に装着する。そのまま車椅子は電動のベルトに引っ張られて車内へとゆっくり入った。車椅子が後部座席に納まったのを確認して、少女は車椅子からベルトを外し、自分は後部ハッチを閉めてから、ナナリーの前の座席に座った。隣には既に少年が座している。
「…ナナリー様。今日という今日は本当に、怒りますからね。」
ナナリーが手馴れた手順でシートベルトを装着すると、振り向きながら呟かれジトリとした視線が向かってきた。
「ナナリー様、もう何回も言ってるのに、どうして置いていくの?」
一緒に連れて行ってって、言ってるのに。
少女の言葉に、ナナリーは肩を竦めて苦笑いするだけだ。
「ジノさん、アーニャさん。お二人の気持ちも判りますけど、でも私、このお店には一人で来たいんです。」
「…だからって、撒いてまで行かなくても良いじゃないですか!」
心配なんです、とジノと呼ばれた少年は声高に告げた。
「せめて一言、話してから向って下さい。毎回毎回、巻かれたあげくに一人で向ったって聞かされる身にもなって下さいよ。一人が良いなら、此処まで送りますから。私達は駐車場で待ってます。だから、これからはせめてお店までお連れさせて下さい。」
その言葉に、アーニャと呼ばれた少女も黙々と頷く。
「でも、そうだったらお二人とお茶をしたくなるじゃないですか。」
けれど、発せられたナナリーの声に、二人は眼を瞠った。
「え…?」
驚いた表情で自分を見つめてくる二人に、ナナリーはニッコリと笑うと歌うように告げる。
「お二人と一緒に来たら、三人でお茶したくなっちゃいます。でも私、このお店にはスザクさんに会いに来ているんです。だからお二人が居ない時に来てるんですよ。此処まで車で送られてしまったら、三人でお茶したくて仕方なくなっちゃいます。それに私、駐車場でお二人を待たせたまま、一人でお茶するなんて出来ません。」
そうでしょう?と首を傾げるナナリーに、二人は言葉に詰まったのか眉尻を下げたまま何も言わない。
運転手から発進する声がかけられ、ナナリーは黙り込む二人の変わりに返事をすると、そのままにこやかに笑って外を眺めた。
初めて店の事を兄から聞いたのも、こんな雨の日だったと思い出しながら。
2010/09/04
カフェネタは書いてるのが溜まってます……。
まだ暑いんですが、夜にはホットが飲みたくなりますね…あっついんですけども。
ナナリー様は元皇女殿下なんですが、隠してます。
そしてお兄様も元皇子殿下なんですが、今は異母兄が経営してる会社に勤めています、当然元皇族とは隠してます。
ジノアニャはナナリーの御付です、三人揃って幼馴染っていいんでないか?と思って。