『カフェ・プティボヌールへようこそ』 3
夕暮れの中、坂道をヨロヨロと歩く人影があった。
細い体躯が右左に揺れるのを、行き違う人達から心配そうに眺められているとも知らず、その人は真っ直ぐに坂の上を目指している。
もう駄目だ、もう駄目だ。そう何回も、心の中だけで呟いているつもりだろうが実はほんの僅かに声に出している事に気付かずに、彼は顔を上げた場所で立ち止まる。
目の前に広がっていたのは、行き着けのカフェだった。
チロリンと鈴の音が鳴ると同時に、背広姿のお客の姿を見つけてスザクは無人のカウンターへと戻った。ショーケースの前で立ち止まり、一心に中身を見つめている客に声をかけるでもなくスザクはその客がオーダーを決めるのを待つ。
疲れていると一目で分かる程に消耗している立ち姿。背広は少しヨレヨレで、シャツは襟元をだらしなく寛げている。それは仕事帰りだからなのだろう。
でもその客は、時折立ち寄っては手土産なのか数人分のケーキを買っていく。そのケーキを選ぶ視線が余りに真剣なものだから、スザクは記憶に残っているのだ。
鴉色の髪の毛が、ユラリと揺れて顔が上がる。少しだけずり下がった眼鏡に頓着する事無く、その客はスザクと視線が合うと僅かに表情を緩めてから口を開いた。
「すみません、持ち帰りで。ティラミスミルクレープ二つにベリーショートケーキ二つ、レモンパイとレアチーズケーキに……この紫のはスイートポテトですか?」
指でショーケースを指すお客に、スザクはニッコリと頷いた。
「はい、コレは新商品なんです。今日出したばかりで、紫芋のスイートポテトになります」
「じゃあ、これを二つ。後は……ティー・プディングと…パンプキン・プディングで」
お願いします、と財布を取り出したお客に、スザクは頷くとトレイを持ち上げた。ショーケースの扉を開いて、オーダーの品を載せていく。
「スザク君」
後ろから声が掛かり振り向くと、店長である藤堂が一つのトレイを手に立っていた。そのまま藤堂はショーケースの上に持っていたトレイを置く。
「試作品が出来たから、宜しく頼む」
そういうと、返事も聞かずに厨房へと戻ってしまった。スザクはその背中に慣れた様子で返事を返すと、注文の品を揃えるべく顔を上げる。
その瞬間、目の前の客がジッとトレイに視線を注いでいる姿にかち合った。
「あの…宜しかったら、お包みする間に試食して頂けませんか?」
さっきまでの視線と全く違う瞳で見つめている様子に、スザクは素直に声を掛けた。時々、藤堂は新作の試作品を作ってはウェイターに託し、店内のお客に試食させているのだ。
「え……、あ」
ジッと見つめていた事に気付いたのか、慌てた様子で声を上げるそのお客に、スザクは注文の品を乗せ終わったトレイをカウンターに置くと、試食用の皿を一つ差し出した。
「其方の椅子にどうぞ。感想も頂けると助かります。あ、注文のお品は此方で大丈夫ですか?」
カウンター脇に置かれた椅子を掌で示して、スザクは確認を取っていなかったことを思い出して慌ててトレイの中をお客に向ける。そうすれば、そのお客は試食の皿を両手で持ったまま、頷いた。
「お包みしますので少しお待ち下さい。これは温州みかんのジュレだと思います。苦手でなければどうぞ」
ゆっくりとした動作で椅子に腰掛け、手に持ったスプーンでジュレに手を付ける姿を横目に、スザクは梱包を始めようと保冷剤に手を伸ばす。けれど保冷剤が入っているはずのクーラーボックスの中は空で、厨房にある業務用冷凍庫から取り出して来なければならなかった。
スザクは手早くグラスにレモンウォーターを注ぐと、小さなトレイに載せて椅子に腰掛ける客へと向かう。
「スミマセン、奥から保冷剤を持って来ますのでもう少しだけお待ち頂けますか?」
そう告げれば、ジッと試作品を見つめたままだったお客がパッと顔を上げる。
細いアルミフレームの眼鏡の奥で、パチパチと大きめの瞳が瞬きをするのを見つめながら、どうぞとトレイを手渡す。無言で受け取る様子が小さな子供の様で、スザクは殊更笑みを浮かべてから頭を下げた。
急いで厨房へ入り、冷蔵庫の中から補充する分の保冷剤を取り出す。それを近くにあったトレイに載せて店へと戻れば、先ほどのお客が黙々と試作品を食べている姿だけがあった。
一心に食べている様子を見てホッと胸を撫で下ろす。気に入ってくれれば良いのだけれど、と思いながらスザクは保冷剤をクーラーボックスに補充すると、梱包する箱に二つ取り出して挟み込む。そうしてから、一瞬、後ろで未だ食べている様子のお客の姿を見つめた。
今回の試作品は、業者が持ち寄った温州みかんを使った即興のものだ。好評なら商品になるのだが、みかんが少なかったこともあるし、どうなるか分からないだろうとスザクは考えた。そうして、無表情を装いながらも美味しそうに食べているお客を再度見つめた。
藤堂に任せられたトレイの上には、まだ試作品が残っている。今はお客も少ないから、全部配っても余るだろう。
それならば、とスザクは逡巡してから二つほど試作品を取り、梱包する箱の中に入れた。
試作として作られたと言っても、ミルクムースの上に果汁入りのジュレと剥いたみかんが載っていて、彩の為にミントの葉があしらわれている。見た目から言っても商品としても見劣りしないし、スザクは藤堂の手が作り出すスイーツの繊細な色彩が好きだった。
好きになってくれれば良いなと願いながら、包装紙で箱を包むと、お客の瞳の色と同じ紫のリボンを巻いた。そうしてから、食べ終わったのを見計らって、箱を持って椅子に座るその人の前まで行く。
近づいてくる気配で悟ったのか、その人が顔を上げた。律儀に膝においていたトレイを持ち上げ、立ち上がる。
「…ごちそうさまでした。ジュレの果汁が濃厚でムースとの対比が丁度良かったです。サッパリなのにほんのり甘くて、美味しかった」
そう言って、彼はトレイを手にスザクに差し出してきた。そうして、空いた両手で眼鏡を直すと崩れていた襟元を正し、梱包された箱を受け取る。
「ありがとうございます、店長に伝えますね」
試作品を褒めてくれたのが嬉しくて、スザクは自分の事の様に微笑んだ。そうすれば、目の前で身形を整えた彼が、眼鏡のレンズの向こう側でパチクリと大きく瞬きをする。
大きいなぁ、と思いながらスザクが会計を告げると、彼は一度椅子に箱を置いてから財布を取り出してトレイの上に乗せてくれた。
「少々お待ち下さい」
代金を受け取り、スザクはレジまで戻ると手早く打ち込み釣銭を準備する。その間、玄関先の椅子の前で所在無さげに立っている彼の視線が此方に向いている事に、急かされているのかもと思ったスザクの考えは全く違っていた。
大きな紫色の瞳の奥で思い描かれていた事実に、スザクは考えも付かなかっただろう。
その時折訪れるお客の彼が、本当の始まりだったのだという事を。
2011/09/25
漸く出てきました、お兄様(汗)