アリア
















 漆黒のマントを翻しながら、車椅子を押す人物はただ無言で一つの部屋を目指す。車椅子に座る少女と言葉が交わされる事は無い。ただ無言のままに廊下を通り、扉の前に立つ。
 ゆっくりとした動作で開いた扉を潜り、車椅子を部屋の中央へと進めると静かに動作を止めた。
 振動すら感じさせないその操作は、随分と手馴れた者でなければ出来ないだろう。
 けれど、常に車椅子を押して傍に付きそう仮面の騎士は、造作も無くその動作をやってのけた。


「…それでは、明日また。」


 仮面越しの声が届き、少女はとっさに腕を伸ばし袖口を掴んだ。
 少女を自室まで送り届けるのは、常にこの騎士の役目となっていた。誰かが言った訳ではない、勿論少女が請うた訳でもない。それが自然だとでも言うように、彼は、ゼロは。
 少女の傍に付き従った。


「…なにか?」


 声は、変声器の所為で冷たく突き放す様に響く。
 けれど、少女にはこの存在の本当の声を、何時だって思い出す事が出来た。


「……呼ばなければ人は来ません。今は、完全に人払い出来ています。だから……だから、」


 それを外しては頂けませんか。
 そう、少女は呟いた。
 僅かに息を呑んだ気配がして、掌に伝った動揺を受け止めて。それでも少女は必死に視線を、その仮面の下に向ける。


「……ゼロ。」


 名を呼ぶ。それだけで、彼はピクリと体を揺らした。


「私は…あの日、貴方をそう呼ぶ事に決めました。もう…戻れないのだということが、判ったから。それでも……それ、でも。」


 もう居なくなったのだと。死んだのだと。何度も何度も、懐かしい学園の友人達からも伝えられた言葉。それでも、赤毛の騎士だけは複雑そうな視線を投げていたのを思い出す。


「…お願い、です。…もう、我侭は言いませんから…、どうか、どうか…今だけで良いのです。」


 何故その仮面が必要なのか、その存在が必要なのか。身に染みて理解している癖に、同時にその存在を思えば哀しみしか湧かない。それは、以前の兄の姿を思い出すからなのか、それとも今現在の彼の現状を憂うからなのか。
 少女にも判断は出来なかった。ただ、どうしても。
 その人に、会いたいのだと。願う事しか出来ない。


「お顔を……見せては頂けませんか?」


 囁く声が、震えている事に気付いたのだろうか。彼はそっと車椅子に座る少女の正面まで移動すると、音も無く跪いた。
 カシュ、と小さな音が響き仮面が開かれていく。その隙間から覗くのは、自分の髪の毛と似た色合いを持つ、柔らかな。
 外された仮面の下から現れた、伏せられていた瞳がゆっくりと瞠られていく。


「……っっ、」


 栗色の髪の毛に、強い意志を秘めた翡翠の瞳。それは昔、兄が伝えてくれた彼の特徴そのままで。
 こみ上げて来た嗚咽と声を飲み込んで、少女は掌で口元を押さえ込んだ。
 目尻に僅かに隈が見て取れて、彼が夜眠れて居ないことを感じさせ、少女は表情を歪める。



 新しい世界の創造を誓ってから、幾つか季節が過ぎた。あの悪夢の様な日の前日、初雪が舞い降りる様を独房から見つめていたのを覚えている。
 あの時。確かに、少女の世界は終った。狭く湾曲された世界は終わりを告げたのだ。
 たった一人の大切な人物の死を以って。
 けれど、新しい世界は生まれた。産声を上げようとしていた。
 それを導くのが使命だと教えてくれたのは。仮面越しの声で囁いたのは、目の前に跪くこの人だ。



 あの日。掴み取った掌から伝わって来たものは、彼と兄との悲壮な決意そのものだった。



 罵り、詰る事も出来なかった。
 兄の胸に広がる赤い染みに体中の力が抜けていった。命が、消えかけているのだと知って。
 けれど、壇上にいる彼に。以前の兄と同じように、仮面を纏い象徴になろうとする彼に。
 恨みなどかけられる筈も無かった。自分と同じくらいの哀しみを受けているのだと、知っていたから。



 それでも、痛みはまだこの胸に。
 だからこそ少女は、迷わずにその両腕を広げて差し出した。


「っ!!」


 そのまま、身を乗り出して彼に向かって身体を投げ出す。
 驚愕の表情と共に息を呑んだのが見えて、身体が床に落ちる前にその両腕でしっかりと抱きしめられる。


「…っ、ナナリー。」


 ホゥと小さく吐息を漏らしたのが、身を寄せる肩口から判った。
 あぁ、まだ心配してくれている。
 まだ私は貴方の内側に居られるのでしょうか、と。少女は想い、ポロポロと涙を流した。


「……ごめん、なさ…っ」


 ギュウとその背中に縋り付けば、優しく宥めるように掌が背中を擦る。温かくて大きな掌。固く筋張った指先が、それでも優しく撫で付けていく。
 言葉に出来ない分、この人は触れる行為に想いを込めるようになっていた。
 季節は新緑を過ぎていて、目に眩しい位の翠が青々と茂る庭園を見ては、エリアと称されたあの場所を思い出す。
 一年前は何をしていただろう。
 その頃はまだ視界は戻っておらず、それでも総督としての責務を果たすのに必死で。それを、彼は隣で微笑みながら支えていてくれたのでは無かったか。


「ごめんなさい…っっ!」


 溢れた涙が、纏うマントに吸い込まれていく。それでも少女は涙を止める事が出来ず、目の前で染みをつくる様子を眺めながらも言葉を口にするしか出来なかった。


「ごめんなさ…ぃっ」


 何度も同じ言葉を繰り返せば、不意に抱きしめる腕の力が強くなり、そっと後頭部に掌が添えられる。そのまま強く抱きしめられて、胸の中に彼の匂いと。
 優しい兄の匂いの記憶とが、満ちる。


「ナナリーが謝る理由なんて無い…。」

「…でも…っ、でもっっ」

「無いよナナリー。君は何も悪くない。何も、悪くないんだ……。」


 罪を罰を背負ったのは僕たちだけだ、と。
 その声色が、哀しみを帯びているのに気が付かない訳が無かった。声の様子で少女は的確にその心情を把握してしまうのだから。


「違います…だって、だって…!」


 動かない下半身を、抱きついた両腕で支えながら少女は必死に首を振り、言葉を紡ぐ。


「貴方が…ずっと泣いているのを知ってるのに私は…、私は何も出来なくて…っ」


 その背中が、いつだって崩れて行きそうな危うさを抱えているのを知っていた。知ってるのに、何も出来なかったのは、彼が既に象徴としての存在に徹底していたからだ。
 だから名前を呼ばなかった。
 けれど。
 彼がどれ程心を押し殺して手を下したのか。その痛みを知っている。感じている、判っている。
 それなのに、少女には二人の決意の中に入り込む事が出来なかった。
 何度も何度も、ごめんなさいと繰り返す。既に彼は、言葉を止めようとはしていなかった。
 繰り返す程に、抱きしめる腕の力を強くさせて。そっと否定を繰り返す。


「良いんだ。これは…僕の罪だから。僕が欲しかった罰なんだ…だから。」


 泣かないで。

 そう耳元で囁く。
 けれど、少女もまた。
 ごめんなさい、と何度も彼の耳元で呟いた。
 何度も何度も繰り返しながら。それでも互いに思うのは。

 この間に居るはずの人間の不在。
 いつもなら笑って隣にいる筈の、その人。
 泣き虫な自分達を、苦笑しながら宥めてくれる。
 けれど今、その存在は何処にも居ない。
 何処にも。この新しい世界の何処にも、彼の存在は見つからない。


「……どうして…っ」


 どうして、こんな事になったのだろう。
 少女はそう思いながら言葉を呟いた。


「私も、お兄様も…ただ、三人で過ごしたあの頃に戻りたかっただけなのに…っっ」

「そうだね…、僕も。僕も…あの頃に帰りたかった。三人で居られるなら、それで良かった…。」


 なのにどうして。
 慟哭は、互いの胸の中で渦巻く。


「…ぉ兄様…っ、お兄様っ!」

「ルルーシュ…っっ!」


 呼ぶのは、この場に居ないたった一つの大切な。
 大切な宝物の名前。


「お兄様…っ!」


 ずっと、小さな世界を護ってくれた人だった。


「ルルーシュ…、…ルルーシュ…っ」


 そっと後ろで微笑んでくれていた。望まない事でも、背中を押してくれていた。その優しさに気が付いたのは、失ってからだったけれど。


 果てることの無い愛情を、注いでくれた人だった。


「…お兄様、」

「ルルー、シュ…っ」


 呼ぶ声に答える声はない。
 それが一層、互いを支える腕に篭る力を強くさせた。



 その存在の喪失を悼むのは、たった二人だけ。
 罪も罰も存在も、全て受け入れて許そうとしたのは。
 だから、涙を流すのも。


 今は、二人だけなのだ。



 無音の室内に、二人の嗚咽だけが響く。











2008/10/02




幾ら月日が経っても、ずっとスザナナはルルーシュの不在に泣いてると思います。
どれだけ、他の人間が許しても。その存在を失くした事を悔いても。

何時何時までも嘆き続けるのはスザクとナナリーだけ。





これ以上ない愛の、救いスザクにを残したルルーシュに涙が止まりません。