『催涙雨』
















 カサカサと、空調の僅かな空気を受けて葉が僅かな音を鳴らす。それを仮面越しにジッと見つめていれば、隣で微笑んでいた車椅子の少女はクスクスと忍び笑いを零して見上げて来る。


「…ゼロ、今日は七夕なんです。折角日本にいるのですからと、神楽耶さんが用意して下さったんですよ。」


 そう言って、膝に乗せていた色とりどりの紙片を持ち上げた。


「短冊もこんなに準備して下さったんです。折角ですから、願い事を書いて吊るそうと思って。手伝って頂けますか、ゼロ?」

「手伝う、とは…何をですか?」


 戸惑いがちに発した言葉に気が付いたのだろう、少女はニコリと笑みを浮かべて首を傾げる。


「…私では、上までは吊るせないですから。私の書いた短冊を笹に吊るして頂きたいのです。」


 それだけで十分です、と。少女は瞼を伏せて一つ大きく頷いた。
 トウキョウ租界のホテルの一室。各々に割り当てられた部屋とは別に、執務用にと手配された部屋の中で。
 一本の笹を挟んで、二人は押し黙っている。


「日本での思い出を、ちゃんとこの眼で確かめたいのです。」


 だからなのだと、少女は小さく呟いた。
 この地に赴いた時でなければそれも叶わない。だから、今この時に思い出せるだけの思い出を、再現したいのだと。
 小さな瞳を精一杯見開いて、少女は強張らせた表情で仮面と向き合っている。
 変声機越しに空気を震わす音が響いて、ピクリと少女の肩が震えた。それを見遣って、仮面の下で眉が顰められた事に気付く者はいない。


「…何を、書かれるのですか?」


 小さな沈黙の後で、そう呟かれた声に。少女は安堵の息を漏らして表情を明るくさせる。


「ゼロ、これは……短冊は願い事を書くものなのですよ。」


 そう言って少女は膝に乗せた紙片を数枚手に取り、酷く懐かしそうな視線を向けて呟いた。


「だからこれは…今の私の願い事を。嘘偽りの無い、唯の願い事です。叶わなくても良い、そんな些細なものなのですけれど…。」


 そうして一枚にペンを走らせてから、スッとゼロへと差し出す。


「吊るして頂けますか…?出来るだけ上の方に、空からでも見える様に…。」


 一番初めの色は、濃いアメジストの色だった。
 無言でそれを手に取り、目の前の笹に結び付けていく。
 一枚、また一枚と差し出される紙片を受け取り吊るし、単調だった緑が色とりどりの紙片に埋め尽くされる頃になって。
 漸く、その紙面に目を向けた。
 細く頼りなげな文字は一年前と全く変わらず、紙の上で流暢に綴られている。その文字が酷く短い事に気が付いて、そっと一枚を手に取り視線を走らせる。

 それは酷く切ない、想いの欠片達だった。

『I wish、』
『I pray、』
『I want to 、』

 どれもこれも中途半端に言葉の途切れた、肝心の思いを入れられない言葉たちが続く。
 少女に視線を向ければ、何枚も紙片にペンを走らせている。けれどやはり、その手は途中で止まり、言葉を綴り終わらない内に紙片は差し出されてきた。


「……ナナリー代表、」


 声を掛ければ、視線を上げて訝しげに見上げてくる瞳に。どう言葉を掛けていいのかを悩む。
 そうすれば、沈黙の意味を理解したのか少女は苦笑しながら僅かに眉根を寄せた。


「私には、言葉に表す事を許されていません、から…。でも、きっと…想いは届くのではないかと思って。それに、言葉にしてしまえば…私は止められそうにないんです。願って、詰って、罵ってしまいそうなんです。」


 そう言って少女は窓の外に視線を向けた。
 曇天の空は、少女の瞳にどう映っているのだろう。


「だから、私の精一杯の妥協なんです。綴ってしまえば言葉になってしまう。そうする訳にはいかない…そうなってはいけない、から。」


 ゆっくりと、少女は首を廻らせて見上げてくる。その瞳が酷く和いでいる事だけが、安堵させた。


「それに、この位の意地悪は…なんてことないでしょう?そうでなくとも、あの人は…私の事なんてお見通しで。私の考える事も、行動することも。全て把握出来ている筈なんですもの。」


 首を傾げて、悪戯を施す幼子の様な表情で。少女は言葉の欠片を書いた紙を差し出してくる。


「…でも今日は曇りだそうですから、もしかしたら空から見えないかもしれませんね。」


 そうして、それでも良いのだと小さく笑った。


「これは……私の後悔の塊ですから。」


 だから届かなくても良い。
 そう自身に言い聞かせるかの様に小さく呟く姿に、なんと言って声をかけられただろう。



 結局その日は最後まで雲が空を多い、夜には僅かに小雨がぱらついた。
 折角の逢瀬なのに空の上では逢えたのでしょうか、と。次の日、少女が寂しそうに曇り空を眺めて呟いたのを聞きとめて。言葉を返す勇気が無く、ただ同じように曇り空を見上げる事しか出来なかった。

 だからなのだろうか。
 少女が強請った事に、否と返せなかったのは。



















「……此処が、ですか?」


 軽い少女の躯を抱き上げたまま、古臭い小さな建物の前に佇む。偏に少女は驚いているのだろう、幼い頃に聞かされていた場所とは雲泥の差だろうから。
 小雨の降り落ちた夜から三日後、予定の入っていない一日をこの場所に来る事を望んだのは少女で。
 石段の下まで着けた車を降り、少女を抱えたままで長い階段を上りきれば、其処には嘗て同僚として一緒に世界を駆け抜けた、世の理とは違う身体を持ってしまった男性が居た。
 全てが終わった後、日本で蜜柑を栽培していると言うのは本当だったらしい。その人のその後を確認する事無く今まで過ごしていた為、面と向かった瞬間に狼狽しそうになったのを仮面で覆われていて良かったと心底思った。
 以前、この場所の管理を彼にお願いすると言い出したのは自分だったと。その時点で漸く思い出す。
 この場の安全を確認しているとの言葉を残し、彼は敷地内を進んで行く二人の姿を見送るだけで、付いてこようとはしなかった。
 だから、目の前に存在する小さな土蔵を前にしているのは二人だけだ。
 この場所がどういう場なのか、彼が知ったら嫌悪感で顔を顰めるだろう。
 しかし此処は、少女にとっては大切な思い出の場所だった。
 戸惑っているのかと思った少女は、ふと腕の中で小さな笑い声を上げた。


「お兄様がおっしゃった通りですね、白い壁に、不思議な形の出窓。」

「…そうですか?」


 思わずそう返せば、少女は視線を上げて見上げてくる。


「貴方の想像していた物とは遥かに違うのではないでしょうか。」


 彼女の優しい兄が、幼い妹に語って聞かせた内容は、ブリタニアに在ったそれまでの自分たちの日常とを比較したものだったから。だから少女の中には、こんな鄙びた土蔵では無く、豪奢な建物が思い起こされていたことだろう。
 現実は、住処にするには不適切な。薄暗い只の物置だ。
 真っ直ぐに土蔵に視線を向けたまま、そう呟けば少女は倣う様に視線を土蔵へと向けた。黙りこくる少女が何を思っているのか、不安に思わなくもないが、それを口にする事も出来ずにただ音の無いその空間を見つめ続ける。
 小さな蔵の脇には、小さな少年が洗濯物を干す為に使った物干しが、錆付き打ち棄てられていた。
 視界に認めた途端、白い背中を懸命に伸ばして洗濯物を干していた姿が思い浮かぶ。
 入り口の隣では、車椅子に座った少女が日向ぼっこをしながら時折、兄へと言葉を掛けていた。
 八年も前の情景だ。
 もう二度と戻らない、手に入らないモノだ。


「……確かに、私が始めに思い描いた建物とは違いますが、」


 突然響いた少女の声に視線を戻せば、ニッコリと微笑まれる。仮面越しに視線が合った事に怯んでしまいそうだ。
 何処か楽しそうに唇を動かす少女の言葉を、漏らさないように耳を傾ける。


「それでも此処は、私にとってはとても大切で、何よりも大事な場所なんです。それに私、此処がどんな広さでどんな形をしているか、大体の想像は付いていたんですよ?部屋の広さを考えれば分かる事ですし、外に出た時、時々壁を触ってみたりしていたんです。」


 お兄様には内緒なんですが、と。そう呟くということは、兄が居ない間にコッソリと行われていたという事なのだろう。


「私たちがそれまでいた場所とは全く違う、とても小さな空間でした。けれど私には調度良かった。私とお兄様とで暮らせるなら、この位の空間さえあれば十分だと思っていましたから。」


 細い両手で、己を抱える背中に縋る腕に力を込めると、少女は視線を土蔵へと向けて囁いた。


「小さな子供が暮らすには十分です。3人寄り添っても十分な広さだとは思いませんか?」


 その言葉に、僅かに顔を俯かせて前を向く少女の表情を盗み見る。


「3人…?」

「えぇ、3人です。私と、お兄様と、そして…スザクさん。」


 当然だとでもいうかのように、少女はその言葉を口にした。そうして、ゆっくりと見上げてくる。
 仮面越しに絡んだ視線は、穏やかなものだった。


「此処は箱庭なんです。私達三人の、小さな小さな箱庭です。こんな世界で私達は暮らしていた。それでも、私達にとっては十分な世界でした。此処には総てがあったから…。」


 自分たちを認めてくれる存在が、導いてくれる存在が居たから。だからそれで良かったのだと、少女は言う。


「ずっとあのままで、3人で過ごして居られたら。どんなに…どんなに良かったでしょう。」


 少女の視線は前を見据えている。


「ゼロ、此処に連れて来て下さって、ありがとうございます。どうしても今日、私は此処に来なければならなかったんです…。」


 降ろして頂けますか、と問いかけられて。望みのまま、土の上に少女の身体を座らせた。
 そうすれば、土に手をついて感触を確かめるかのように指先を触れされて、少女はゆっくりと顔を上げる。


「…二人一緒じゃなくて、ごめんなさいスザクさん。」


 そう呟くと、少女は今は居ない存在に語りかけながら土蔵に視線を注いだ。


「去年も私一人で…。スザクさんの事だからきっと気にしないでくれていたと思うのですけど。それでも私は、お兄様と一緒に祝えないのが心苦しくて…そう心の中で呟いていたんですよ?」


 知らなかったでしょう?と少女は悪戯気に吐息を綻ばせた。


「でも…良いですよね?今は、お兄様と一緒にいるはずですから。…スザクさんは泣き虫ですから、お兄様がスザクさんを慰めてくれていますよね。二人一緒にお祝い出来ないですけど、お兄様が傍に居られるなら…それで良いですよねスザクさん。」


 呟いて、少女は眼を細めた。そして、とても嬉しそうに頬を綻ばせる。


「…産まれて来てくれてありがとうございます。私達と出逢ってくれて…、お兄様と私を認めてくれて。私達を…この地で生まれ変わらせてくれて。本当にありがとう、スザクさん。」 


 傍から見れば、とても場違いな行動だろう。けれど、総て見つめている仮面の騎士には、彼女の行動の理由が判っていた。
 だから、声もかけずに少女のしたいようにさせている。砂利が衣服を汚すのも気にしないで座り込む少女の心根に、手を差し伸べることすら出来ないで。
 凛と佇み言葉を向ける少女の背中を、眺めることしか出来ない。


「他の方がどう言われようと、私たちにとってスザクさんは太陽の様な方でした。私達を温かく照らし出してくれた…、見守ってくれていた、生かしてくれた…!私とお兄様にとって、貴方の存在はかけがえの無い宝物だった。貴方が居てくれたから、私達は自分自身を見失わずに居られたんです。」


 土を確かめていた指先が、ギュウと握り締められる。呟いた言葉は少女自身の胸を詰らせた。
 けれど、少しだけ少女は頭を俯けてから、キッと視線をまた土蔵へと向けた。
 贈る言葉は、この場所にしか与えられないから。他の誰にも、向けられないから。だから少女はこの場所に心を残す事に決めたのだ。
 不変というに等しい、忘れ去られたこの場所に。
 全ての想いの欠片を、捧げようというように。


「ありがとうございます、スザクさん。ありがとう、最後までお兄様に付き添ってくれて。お兄様は寂しがり屋だから、スザクさんの存在が在って初めて安心出来たんです。お兄様の傍に居て下さって、お兄様を支えて下さって、本当にありがとう。」


 何度も何度も、ありがとうと繰り返す。その言葉は、目の前にある思い出の風景にだけ向けたのでは無かった。
 囁く声に滲む気持ちが、周囲に伝染する。時雨はヒッソリと雨脚を緩めて、周囲の音を完全に遮断してしまった。
 この場に佇む二人の息遣いしか存在しない空間に、優しい気持ちが降りしきる。
 何度も、何度も繰り返される想い。
 面と向かって捧げる事は出来ないから、この方法を少女は選択したのだろう。
 近くに居るのならばこの言葉を耳にして貰える、そう思っての行動なのだ。
 直接囁けないから、この空間に佇む今だけで良いから、聴いていて欲しかったのだと。その小さな背中は囁いている。
 記号に徹する姿勢を否定しない、その精神を拒絶する訳にはいかなかった。
 だから何も言わずに、土に腰を下ろす少女を何も咎めず、好きなようにさせている。
 この言葉が、その凍て付いた胸の中に届いてくれれば良いと、それだけを想って少女は言葉を口にし続けるのだと判っているからだ。
 この想いが変わることは無いのだと、言わしめるように少女はその背中を預けている。


「大好きです、スザクさん。愛しています、私のもう一人のお兄様。」


 そう言って、少女はじっと土蔵の白い壁を見つめた。
 子供の頃に二人が走り回っただろう大地と、自分たちの存在した場所を。大きな瞳で凝視し続ける。


「…愛しています、お二人を…ずっと、ずっと。」


 シトシトと零れ落ちて来る雫が、少女の髪の毛を僅かに濡らす。
 傘を差す程でもない、地面を濡らす量でもないそれは、音も無く静かに降り注ぎ。
 辺りを静寂が包み込む。


「……行きましょう、ゼロ。もう用事は済みました。」


 言いたい事を言い切って、少女は漸く後ろを振り返った。視線の先にある仮面は何も語らない。
 けれど、それでも何かを胸に抱いてくれたのではないだろうかと、少しだけ希望を持って見上げてくる瞳は、薄いけれど確かに大切な人の瞳の色と酷似していた。
 小さく笑みを浮かべる少女を、無言で抱き上げる。胸を詰らせる感傷を、形にすることは出来なかった。
 少女はそんな仮面の騎士を見つめながら、小さく吐息を吐く。その胸の内は、誰にも判らない。きっと、唯一と決めた最期の主にしか、その心は聞こえないのだろうと、諦めを持って口端を持ち上げた。
 そうしてそのまま何も言わずに踵を返した仮面の騎士に、少女はパラパラと降りかかる雫を見上げるように空を仰いだ。


「ゼロ、七夕の日に降る雨は催涙雨と呼ぶのだそうです。では…あの日から降り続いてるこの雨もまた、催涙雨なのでしょうか…。」


 ホテルの一室に設けられた笹に、願い事を吊るした日。曇り空から落ちた雫は、勢いを増すこともなく今もまた降り注いでいる。
 視線を戻せば、無機質な仮面が少女をじっと見つめていた。


「涙を催す雨と書くのだそうです。哀しみの雨とも、喜びの雨とも、どちらの意味でもあるそうですけど…。」


 そう言ってから一度言葉を区切り、少女は空を見上げた。
 青紫の瞳に映る曇天は、どんな想いを受け止めているのだろう。


「出来れば今は。今だけでも…喜んで頂けていると。そう思ってもいいですか?」


 憧憬を滲ませた瞳は、今にも零れ落ちそうな雫を湛え始めた。


「喜んでくれていると、思っても良いですよね…?」


 ギュウ、と両手を胸の前で祈るように握り締めて、少女は俯いてしまう。
 榛色の髪の毛がフワリと揺れて、仮面越しにも少女の外に出さない慟哭が聞こえるようで。


「…そう、ですね。」


 口を吐いたのは、ほんの僅かに少女が望んだ答えだった。
 諦めながらも欲した言葉を察して、仮面の騎士は少女に視線を向けることなく、空を仰ぎながら。
 無意識の内に抱き上げる腕に力を込めながら、象徴としての存在は少女が望んだ僅かな救いを汲み取った。


「きっと……彼らが流した涙が、貴方の元に降り掛かっているのです。」


 貴方の気持ちが空に届いたのでしょう、と。小さな囁きが少女の耳に届く。
 目を瞠り、少女は顔を上げた。見上げた先にあるのは、変わらない冷たさを持った仮面で。けれどその中から掛けられた言葉は、温もりを宿している。
 それだけで十分だと、少女は微笑んだ。
 その表情を受け取ることが出来ないままに、仮面の下で小さく呟かれた声が届かなかったのは、偏に。










 今は死んだ人間が囁いた言葉だったからなのだろう。


















2009/09/11

遅すぎる、スザク誕生日記念でした。時間掛かりすぎだ…反省。

ゼロナナは物悲しくなります。

ゼロで在り続けるスザクが愛おしいです。
そんなスザクの隣で、ゼロを肯定するナナリーが愛しいです。
そんな二人の姿を切に望んだ、ルルーシュの愛が酷いです。