陽だまりの中の秘密
暇を持て余して屋上へと足を向けている途中だった。軽やかな駆動音が、廊下に響いて来たのは。
「…ナナリー様。」
後ろを振り返れば、桃色の車椅子に腰掛けたまま盲目の少女が廊下を進んでくる。そっと手凭れに置かれた指先で操作をしつつ、少女は掛けられた声に顔を上げた。
「ジノさん?」
薄らと浮かべられた微笑に、思わず笑みを零す。スザクに見られたら何か言われそうだと思うけれど、今はスザクは執務中で此処には居ない。それに安堵しつつ、ジノは足を止めて少女が追いつくのを待った。
「こんな所で、どうしたのですか?」
僅かな音を響かせて停止した車椅子から、少女は首を傾げて見上げて来る。
政庁の最上階。
屋上の庭園へと続くこの階は、特定の人間しか立ち入り出来ない様になっている。だからこそ、二人以外他にこの場に人は居ない。現れることもないと判っているからか、少女は執務中よりも表情にゆとりが浮かんでいた。
「お仕事は宜しいのですか?」
サボりでしたら怒られてしまいますよ、と。少女は小さく笑って閉ざされたままの瞼で笑みを深める。
「…私の仕事はもう終ってしまったんです。まだスザクは書類と格闘していましたが。」
総督は宜しいのですか、と逆に問いかければ、少女は苦笑を漏らした。
「私も今日はもうお仕事が終ってしまって…。難しい書類とかは皆スザクさんがやってしまうので、暇になってしまったんです。」
「ヒマ、なんですか?」
「はい、暇なんです。」
クスクスと互いに声を漏らして笑う。
「ナナリー様はどちらへ?」
この先には庭園への入り口しかない。それを分かっていて敢えて問いかければ、少女はフフと小さく声を漏らした。
「天気が良いので、日光浴でもしようかと思って。」
お部屋の中にばかり居たら、湿ってしまいます。そう言って、屈託無く笑う。
そんな穏やかな表情を見せてくれる様になるまでに、随分と時間がかかったな、とジノは不意に思った。
以前は何処か、隔たりを感じさせる対応だったものが。このエリア11に来た所為か、表情も会話も、ずっと同年代らしさを感じさせる。
「ジノさんは、どうして此処に?」
僅かに首を傾げ見上げてくる少女に、ジノは見えないと分かっていても笑いかける。少女が雰囲気から感情を読み取る事が出来ると分かっているからだ。
「そうですね…私も日光浴でもしようかと。」
そう言えば、少女は楽しそうにまた笑い声を漏らした。
「一緒ですね?」
「えぇ、一緒です。」
クスクスと響く笑い声が、何処か僅かに悲しみを帯びているような気がしてジノはジッと少女を見つめた。
「では…ジノさん、ご一緒しても宜しいですか?」
少女の手が、スイとジノに伸ばされる。
「それはコチラの台詞ですよ、ナナリー様。是非ご一緒させて下さい。」
その手を取り、跪いて臣下の礼を取れば。衣擦れの音で気付いたのだろう少女はほんの少しだけ、僅かに表情を曇らせた。
それが、皇族と臣下としての立場を憂う想いからなのだという事は、端々の少女の言葉から感じていた事だ。けれど自分の身分は臣下である以上、それも致し方ないのだと。
最期にギュッと少女の掌を握り締めてから、ゆっくりと離す。
少女が顔を上げたのに、上から見下ろす形で微笑んだ。少しでもこの少女に安心を与えてやりたいと、そう思う様になったのは同僚の影響なのだろうか。
小さな薄紅色の唇から、人知れず吐息が漏れたのを確認して、会話を続ける。
「ナナリー様、椅子をお押ししましょうか?」
精巧な電動式の車椅子は、少女の指先1つで操作出来る造りになっている。しかし、同僚であるラウンズの青年と少女は、必ずと言っていい程に彼女の車椅子を押して行動している。
だから敢えてそう問いかければ。
「…いいえ、大丈夫です。」
少女は、少しだけ考えてから首を横に振った。
「出来れば、ジノさん…横に並んで歩いて頂けますか…?」
キュウと握り締めた掌を胸元において、少女はそう呟く。
「押して頂けるのはとても嬉しいのです。でもそうすると…話をするのに少しだけ、距離が生まれてしまうのです。」
後ろを振り返ってお話すれば、気にしなくていいって、前を向いててと言われるのだと少女は呟いた。
「…本当は、横に並んでお話したいんです。普通に歩ける人達は、隣に並んでお話しながら歩くでしょう?でも私は車椅子だから、場所を取るし…横に並ぶなんて出来なくて、何時も前と後ろでお話する事になってしまって。」
それでも、とそう少女は言葉を続ける。
「スザクさんもアーニャさんも、私のことを気遣って車椅子を押して下さっているのが判っているから、何も言えなくて。隣で顔を見ながらお話する方が、何倍も楽しいと思うのですけれど…。」
目が見えない私が言える事ではないのかもしれないのですが、と。前置きしてから、少女は躊躇いがちに告げてくる。
「できれば、隣に並んで歩いて頂いた方が嬉しいんです。ジノさん、後ろでは無く…隣でお話しながらご一緒いたしませんか?」
僅かばかりの不安をその表情に浮かべながら、少女はそっと手を差し伸べてきた。
その手を取らない理由は無くて、ジノは自然と浮かんだ笑顔を少女へと惜しげなく注ぐ。
「…ではナナリー様。お手を繋ぐ事をお許し頂けますか?」
そう逆に問いかければ、少女は小さく声を漏らした。
「え…?」
「その方が歩くスピードを調整出来ますし。」
どうでしょう?と問いかければ、戸惑いはすれどもその表情は決して否定的な物ではなくて。
「…ハイ。」
僅かに頬を染めながら頷いた少女の掌を、恭しく持ち上げる。
「ナナリー様の手って小さいですよね。」
「それは…ジノさんの手が大きすぎるんですよ?」
並んで歩き出しながら、ジノが少女の掌の感想をそう漏らせば、少女もまた掌に力を込めながら言い返してくる。
車椅子に速度を合わせながら、隣を歩く人の速度に合わせながら。
そう互いに思いながら、顔を見合わせ廊下をゆっくりと進んでいく。
「そうですか?」
「ハイ、ジノさんの掌はスザクさんよりも大きくて、同じくらい硬くてゴツゴツしています。でも、それが鍛錬している人の掌なんだって、教えて貰いました。」
まるで瞳が見えているかの様に、少女は顔を向けて笑いかけてきた。
「スザクにですか?」
「いいえ、お兄様から。一年前、七年ぶりに会ったスザクさんの掌があまりに以前と違っていて…。七年も会わなければ当たり前なのでしょうけど、それでも不思議に思ってお兄様にお話したんです。その時に教えて貰いました。昔もスザクさんの掌は肉刺が出来てたりしたんですけど、今よりはまだ少しだけフニフニしてる所もあったんですよ?」
あの頃は三人共、まだ子供だったから。そう呟く少女の表情は、懐かしそうに微笑んでいる。
「今よりももっともっと小さな掌でしたけど、スザクさんに手を握って貰ったり、何かをして貰うのが本当に嬉しかったんです。」
そう言って少女はニコリと笑う。
「温かくて、肉刺で固い所もあるけど、腕をイッパイに広げて私達を抱き締めてくれる、そんな優しさが溢れた柔らかい掌でした。」
この少女が、スザクに肉親の様な思慕の念を向けているのを分かっているつもりで。それでも判っていなかったのだと、少女の表情を見つめてジノは思った。
相手の事を想い、朗らかに微笑む姿。それはジノが今まで見てきた貴族社会にも皇族の間にも、見つける事のなかったものだ。
少女が浮かべているのは、見返りを求めない愛情という名の好意だ。
それは弱肉強食というブリタニアの社会からすれば異端であり、また忌み嫌われるもの。
だからなのだろうか。
羨ましい、と思うのは。
「…スザクは、幸せ者ですね。」
貴方の様な人が、傍にいて。
思わずそう、口にすれば繋いだ掌から僅かな動揺が伝わってきた。
「ぇっ、と…」
真っ直ぐに見入られて、失言だったかと言い繕うとすれば。それよりも先に、繋いだ掌にギュウと力が籠められる。
「ジノさんの掌も、とても優しいですよ。」
少女の紡ぐ言葉が、掌から侵食するかの様にジワジワと伝わってきた。
「温かくて、力強く導いてくれる…そんな優しい手です。」
柔らかく微笑む、そんな貴方の方が酷く温かくて優しい、と。伝える事が出来れば良いのにと思う。
「そ…う、ですか?」
「そうですよ。ジノさんはとても強くて、真っ直ぐです。そんなジノさんだから、スザクさんだって気にしているんですよ?」
横を向いたままの声に返された言葉に、ジノは驚いて少女を見つめながら叫ぶ。
「そうなんですか??」
「ハイ。絶対、です。自分で仰ったりしないでしょうけれど。」
私には判るんです、と。少女は楽しそうにそっと声を潜めながら囁く。
その表情がとても楽しげで、誇らしげだったものだから。
「ナナリー様は、スザクの事が本当に好きなのですね。」
「はいっ!」
問いかけに間髪入れずに返答されて、ジノは思わず苦笑する。そして。
「でも、ジノさんもスザクさんの事が好きですよね?」
続けられた言葉に思わず噴出してしまった。
「…そ、そうですね。私もスザクが好きですよ。」
笑いながらもそう返答すれば、嬉しそうに微笑む顔と力の込められた掌に、胸の中に暖かくなる。
「一緒ですね!」
「えぇ、一緒です。」
そう言って、二人でクスクスと笑う。
繋いだ掌が、より一層強く繋がれて。
庭園への入り口まで到達する、ほんの少しの間。
二人は声を出して笑い、繋いだ掌に力を込めた。
二人で並び廊下を行く姿を、他の誰も目にすることはない。
それを二人共に安堵している事は、互いに口にしない限り誰にも漏れる事は無い秘密だった。
2008/09/28
ジノはナナリの純粋さに癒されてれば良いよ………。
最終回前に更新出来ていればよかったなぁと思いつつ。